2012年12月20日木曜日

冬休みのお知らせ




     今日は今年最後の勤務日でした。



 先生ったら今日14時の飛行機に乗る人なのに午前10時までに
山の様に予約を入れて鍼を刺しまくって11時過ぎには飛び出て行った。
ハルビンに帰るのです。



 私はそのあと患者さんのケアをして12時半には皆さんお帰しして
そのあとお掃除をして病院を閉めてきました。
今週は月•火•水とずっとこの調子で死ぬほど忙しかった。


 そして私は明日の便で福岡に帰省します。



    ということでブログは冬休み。1月の2週目過ぎたら病院は開きます。
   そしたらブログも再開しますね。





         皆さん、良いお年を。メリークリスマス!




2012年12月18日火曜日

シャボン玉 飛んだ ⑥




    私はたいていおじいちゃんやおばあちゃんの患者さんととっても気が合う。





 自分の両親と同じ年代だからというだけじゃなく「古き良き時代の」人々だからだと
思う。私が日本でドイツ語を習っていた頃ドイツはこんな国あんな文化だと教わった
その時代背景を担って来られた方々だからね。



 私はもともと文学畑の出身だから一通りのドイツの文学の知識がある。これが
おそろしいほど、私と同世代以下のドイツ人の人々とは趣味が合わないのだ。


 どうしてドイツの小学校の教科書にドイツ文学の「名作」がどこにもないのか
ものすごく不思議だった。ドイツでは小学校は4年制なんだけど、10歳にもなれば
良質の文学書はいろいろある。初期のヘルマン•ヘッセとかエーリッヒ•ケストナーとか。
ミヒャエル•エンデだって素晴らしい作家だ。もちろん。でもそんな「スタンダードな」
作家はどこにも出て来ない。父母会でこの話題を二度ほど出したことがあるのだけれど、誰も相手にしてくれなかった。ママたちは受け持ちの先生の評価だとか進学のことには
興味あるんだけど目の前の教科書の内容にはあんまり興味ないみたい。



 ハルさんにこの話をしたら、もう、ものすごく賛同してくれた。私はやっと私の感じていることを理解してくれる人が出来て嬉しいのなんのってなかった。



『それはやっぱり、第二次大戦の後遺症ってやつだなあ。』ため息をついて彼は言った。
『ナショナリズムのにおいがすることに敏感なんだよね。お役所の人たちは。私たちの
世代はゲーテのファウストを暗唱したり、トーマス•マンを読んだりしていたものだけど
今の人たちは昔風の「ドイツ的」なものは何でもかんでも「ハイル•ヒットラー!」に
繋がると思ってアレルギー的に避けちゃうから結果的にこうなってしまった。
ドイツ人が今は一番ドイツの芸術の美しさを分かっていないのさ。
嫌な時代になっちゃったねえ。』



 そう言いつつ空を仰ぎ見たハルさんの青い目を細める仕草が印象的だった。



(続く)



 

2012年12月16日日曜日

シャボン玉 飛んだ ⑤




    ハルさんとは毎回、色々な話をした。彼は根っからの自然派で
   時間が少しでもできるとご自分のキャンピングカーで山に出かける
   ということだった。


 私はもちろん参加したことがないけれど毎年恒例で山登りをしていたんだって。
私の前任者のカリンさん(仮名)も毎年ボーイフレンドと一緒にハルさんと
先生ご一家のお供をしてたそうだ。残念だなあ。今年は音頭取りのハルさんが
ご病気で。



 日本には行ったことがないが(物価が高いから)アジア各国は若い頃
あちこち回ったらしい。リュックひとつ背負って。お若い頃の旅行談も
色々と聞かせてもらった。やっぱり中国の話が多かった。
中国の水墨画に出て来るような風景にたくさん出会って中国ファンになった
そうだ。うちの診療室にはそれぞれ先生が中国からお持ちになった山水画が
飾ってあるのだけれどその一つ一つを眺めながら、ここはこんな風、
あんな風と思い出を私に伝えてくれた。



(続く)

2012年12月15日土曜日

シャボン玉 飛んだ ④




   怪我が治ってからもハルさんは治療を受けに週二回うちにいらした。
  正式には患者さんではない。(請求書も発生していないしね。)
  本人の希望というより先生が強く勧めたからだ。
  


 先生ははっきりハルさんの体調の不調を見てとっていた。当時の私には
何がなんだかわかっていなかったけれど。



 ハルさんは私が日本人と知って捕鯨問題について話題を振って来た。
私たちの意見は真っ向から対立するものだったけれど、なかなか楽しい議論
となった。そもそも私に真っ向から捕鯨問題などを論じようとする人など初めてだった。
ドイツ人はよく議論が好きだとか色々いわれるけれどTPOはわきまえるから
アブなさそうな話題を振る人は滅多にいない。二十年ドイツに住んでいてこの問題について水を向けられたことなど本当に一度もなかったのだ。


 またある時はドイツの母国語教育について話をした。
私の子供はドイツ生まれドイツ育ちだから母親としてドイツの
教科書や学校教育のあり方は注意深く見て来た。が、ひどいものだと
正直思う。(日本でもきっと似たようなことがたくさんあると思うのだけど)
どこにどう照準を合わせているのかさっぱり分からないようなシステムだし
何より私が一番不満なのは「言葉」としてのドイツ語の「美しさ」に触れさようとする
意思が感じられないことだ。
ハルさんは私の気持ちをそのまま理解してくれたと思う。



(続く)

2012年12月14日金曜日

シャボン玉 飛んだ ③





    ハルさんの病状が私には今ひとつ理解できなかった。




 具体的には足の傷だ。右のくるぶしの辺りからふくらはぎにかけて
大きな傷口が見えている。外科?事故にでも遇われたのかな?
先生はハルさんの傷口の包帯を解いて粉状のお薬を振りかけた。
傷口を乾燥させるのだ。



 最初はちょっとした怪我だったらしいのだが2週間ほど全く治る気配を
見せず敗血症を起こしたらしいのだ。



 あの頃は私も今よりずっと経験が浅く、なぜそのようなことが起こるのか
不思議だった。
でも例えば時期を同じくしてループスのおばあちゃんの身の上にも同じような「出来事」が起こっていた。ベランダで椅子を移動させていたおばあちゃんは足を椅子にぶつけて
小さな出血を起こした。傷口は2センチほどの小さなもの。けれど何時間たっても
出血は止まらない。出血量もどんどんひどくなる。結局救急病院のお世話になったが
傷口を縫うことは出来ずテーピングで止血した。その傷はその後5ヶ月ほど(!)
開いたままだった。



 ハルさんのケースは彼が消化器系の不調で17年間抗生物質を摂り続けていた
というところから端を発しているものらしかった。




 彼はただの怪我をしただけの患者さんというより重大な病気を抱えている
疲れたお年寄りに見えた。




   そして幸いなことにずっとふさがらなかった傷口は先生の治療の成果が
  すぐに現れて三日ほどで完治した。



2012年12月13日木曜日

シャボン玉 飛んだ ②




           ハルさんはきさくで率直な人だった。



 この人は先生の親友と言うより正確に言えば先生のお父様の親友でいらっしゃった。




 先生と奥様はは中国ハルビンの出身だ。先生のお母様の家系は医者の一族だが
お父様はエンジニアで満州鉄道の技術担当でいらした。建物の設計も手がけていらして
彼の手による建築物もまだ残っている。文化大革命の嵐の吹き荒れる中、ドイツのシュトウットガルトへ留学経験のあるエリートでいらした。満州鉄道の技術提携でドイツ人を
招いた際、ドイツ語のしゃべれる先生のお父様が通訳として活躍した。
それ以来、家族ぐるみの付き合いだったらしい。


 1980年代の中国ではラジオ付きカセットデッキなど見たこともなかった。先生にとってハルさんは魔法のようなものをたくさん持っているおとぎの国からきた人だった。
このまま中国にいてはいけない、ドイツにいらっしゃい、別の世界と別の価値観を
経験した方がいい。そういって、当時24歳で医学部を卒業して大学病院の癌科クリニックでインターンをしていた先生をドイツに誘ったのが彼なのだ。


(続く)




今日、患者さんにクリスマスクッキーをいただきました。手作りです。



  

2012年12月12日水曜日

シャボン玉 飛んだ  ①




   病院勤めを始めて二週目か三週目だったと思う。
  



 お昼休みに先生がにこにこしながらおっしゃった。


『これからちょっと出かけてきます。実は私の大親友が今日、退院するので
お迎えに行くんです。すぐ近くのイザール病院だからね。』



 先生のドイツ語はものすごい中国語なまりですごく聞き取りにくい。今はずいぶん
慣れたけれどあの頃はドイツ人の患者さんと話をするよりしんどかった。
このときも5〜6割しかわかっていなかった。ものすごい語彙力と表現力を
お持ちだとあとになってわかったんだけどね。


 先生がお出かけになったあとで奥様がお弁当を持っていらっしゃった。
『あれ、吉岡さん、主人はどこ?』


 そして奥様のドイツ語は輪をかけてわからない。当時はほとんどわからなかった。
奥様も実はきちんとあらゆることをドイツ語で表現できるしドイツ人の前でも
対等に話が出来る。いまだにドイツ語だと萎縮してしまう私とは雲泥の違いだ。
夫婦喧嘩もドイツ語でしょっちゅうしている。これは私たち夫婦には決して真似の
出来ない芸当だ。


私 『ええっと、ドクターはお友達を迎えに行くとかおっしゃってどこかへ
  お出かけになられましたよ。』



 あ〜あ、そうだった、そうだった。そう奥様がおっしゃってからしばらくして
先生はお帰りになられた。




 そして私は彼と出会った。ハルさん(仮名)と。



    先生の大親友とはドイツ人のおじいちゃんだった。 




(続く)

2012年12月11日火曜日

2012





          あと数日で世界は滅ぶらしい。




 うちの患者さんで土建会社にお勤めのキャリアウーマンがいるんだけど
彼女がぼやいていました。



   「建設工事が進まない訳だわ。だってもうすぐ世界が滅ぶんだもん。」



これと似たようなエピソードはあちこちで聞こえてきますね。




 ことの真偽はともかくとして私は今回の終末論議にはどうもイマイチ「乗れ」ない
です。どうしてかというと • • •



     去年の3•11の喪に服す気持ちが続いているから。



 世界が終わるって言ったって、日本人にとって世界はもう去年、一回終わったような
気がしていませんか?私はどうしてもこんな話題は三陸沖の人たちや福島の被害にあった
人たちに対して申し訳ないような気がしてしまう。



 ただね、実は(正確には去年からだけど)私の周りでは3•11以外の理由で
お亡くなりになった方が結構多い。
(アセンションしたのかな?あるいはアセンションする「資格」を持っていらっしゃる
方々だったのかな?と思ったりしています。)



 うちの病院でも今年、一人の患者さんを亡くしました。しかも私たちにとって
とても大切な方だった。



 その方の話をします。



(続く)

2012年12月10日月曜日

プロフェッサー  ⑩





  病気の治癒というのは患者がどれほど「治りたい」という意思を持つかで決まる。





 よくそういわれるけれど、これは単純な真理だ。だから私はここで働いていて
患者さんからパワーをもらうんだ。


 

 うちは高い。よその高級プライベート医院に比べればかなりお安く設定してあるけれど
(プライベート医院のタリフがあって、うちはその中でも一番低い標準料金を採用している。)誰でも気軽に立ち寄れる料金設定ではない。
それでも「治りたい」から皆さんいらっしゃる。真剣勝負の場なのだ。



 そしてプロフェッサーは中でも際立ってご自分の意志を表現なさる。あらゆる形で。
ピアニストだから(だと私は推測するけれど)きっと「表現」することが得意なのだろうと思う。


 私にとって2度目の滞在型通院が終わったあと、彼は毎日のように電話をかけて来た。
きっちり8時に。煎じ薬の効果を事細かに語り投薬の処方箋を3度書き替えさせた。




 それは夏ももう終わりかけたけだるい月曜日の朝。8時ぴったりに病院の電話のベルが鳴った。
私は暗いニュースを持っていた。前日の日曜日、子供のピアノの発表会が開かれた。
その場で聞き知ったのだ。ケンマリング先生がお亡くなりになったことを。できれば
今日はプロフェッサーとは話をしたくなかった。


私      『おはようございます。プロフェッサー。ヨシオカです。』

プロフェッサー『ヨシオカさん。おはようございます。あなたからドクターに取り次いで        欲しいことがあります。』
私      『はい、処方箋の変更の件ですね。』
プロフェッサー『違いますよ。朗報ですよ。聞いてください。私の病気はとうとう
        退散したみたいです。今、私は若い頃と同じようにピアノを弾けるよう        になったんです。ドクターとあなたにまずはお礼を言いたくて。』
私      『えっ?』



 私は絶句してしまった。信じられない。もちろん私は一生懸命やった。ドクターは
語るに及ばず。先生はプロフェッサーの精神分析までやり始めて(子供の頃のトラウマとか探し出そうとするからね)彼から煙たがられたりしていたほどだったのだ。
本当に治ったんだ。やっぱり治るものなんだ。もう、どうしたらいいか
わからないくらい嬉しかった。




 プロフェッサーは我々の共通のピアノの師である(うちの場合は正確には孫弟子だが)
ケンマリング先生のご不幸についてもすでにご存知でいらっしゃった。
『ひとつの時代が過ぎ去りました。あまりにも惜しい人を亡くしました。』
電話口で我々はひとしきり語り合った。




 その日、うちのドクターは大いばりだった。ものすごく珍しい。
とっても謙遜家なんだけどね。いつもの先生は。
あの年齢で、あの病気が本当に治るかどうか、先生もきっと不安で
いらっしゃったんだ。



(続く)





2012年12月9日日曜日

在外選挙に行ってきました



 今日は土曜日。お仕事はお休み。




 改めてお仕事って大変です。お買い物もその他の用事も
すべて土曜日曜にしなければならない。ドイツでは日曜はお店は全て閉まっているから
土曜日が勝負の勝負!
そんななかで選挙に行ってきました。海外は国内より先に行われます。
年末の総選挙は日本人としての「民度」が問われる大事な場と理解しています。


 色んな「想い」を込めて選挙に行ってきました。
でも、選挙の帰り道で見たオデオン広場の夕焼けの光景がとても印象的でした。
やっぱり私たちは海外で生きているんだなあって。



王宮中庭から撮った写真です。テアテイーナー教会。




ブリエンナー通り。中世のクリスマスマーケットがあるんですよ。








2012年12月7日金曜日

冬瓜



   今日はドイツではニコラウスというドイツ版サンタさんの日です。
 

 でも、今日は(ニコラウスの話ではなくて)なぜか冬瓜(とうがん)を
いただいて帰ってきました。これは大きい!写真じゃイマイチわからないけれど
80センチくらい横幅は直径20センチというとこかな。
写真の丸い一切れが十分の一くらいの大きさです。
先生の奥様にスープの作り方を教わりました。干しえびを油で炒めて香りが出たところで
大きめに切った冬瓜(幅一センチくらい、縦横4〜5センチくらい)を加えて一緒に痛め
水を加えたら10分ほどゆでて冬瓜がとろとろになったあたりで岩のりを適量加えます。
あとは塩こしょう、お好みで醤油やごま油を加えて出来上がり。ワイルドな感じなのに優しい味のスープでした。
炒め物にする時は羊の肉を使うんだそうです。







お家にもって帰ってスープにしていただきました。



   ごちそうさま。





2012年12月6日木曜日

クリスマスシュトレンを焼きました!





     ドイツのクリスマスの季節がやってきました。



 ドイツでは「聖なる夜」と言う名のクリスマスイヴ12月24日を遡る4週間前
の日曜日からからクリスマスのお祝いを始めます。今年は12月2日の日曜日が第一降誕祭(アドヴェント)でした。


        クリスマスシーズンスタート!


うちの病院でも4つのろうそくのついたリースの最初のろうそくに火を灯します。


 上の写真はこれに合わせて私が焼いたシュトレンというドイツのクリスマスケーキです。幼子イエスの飼い葉桶(あれ?おくるみだったかも)の形に(どんよりとした長方形の餅のような形)作ります。


 なんと中華風に少しアレンジしてみました。フルーツをとにかくたくさん使うのですが(総量1キロ以上!)その中にしょうがの砂糖付けを入れ、香辛料に五香粉(シナモンなど5種類の中華香辛料ミックス)、それから朝鮮人参との柔らかい部分となつめをすりつぶしたものが入っています。朝鮮人参は苦いのでスプーンに一さじほどですが
食べてみると全く気がつきませんでした。われながらこわごわ作ってみたのです
が結果は大成功。
特にしょうがが好評でした。


 患者さんたちが大喜びして食べてくださるのでとても嬉しいです。病気が理由で
食べれない方ももちろんいらっしゃいますが、反対に全然食欲がなくて困っておられた方が『これなら大丈夫。』とおっしゃってくださったりすると喜びもひとしおです。




 明日は「ニコラウス」の日(日本で言うサンタの日。ドイツではサンタはニコラウスといって12月6日にやってくる。)です。楽しみですね。


 ではまた明日。








2012年12月5日水曜日

住と食のメッセに行ってきました!




 患者さんにタダ券をいただいたので子供たちと3人で
メッセに行ってきました!



 私はマッサージ機の展示場で夢見気分。今時のマッサージ機って
あんなこともこんなこともできて気持ちい〜い!
ウオーターベットにうっとりしたり
子供たちは食べ物の試食のコーナーで味見をたっぷり。
結局あれ買ってこれ買ってで美味しかったもの買わされました。


 写真もアップしますね。今日はぐったりなのでまた今度。



2012年12月4日火曜日

プロフェッサー  ⑨




 私はプロフェッサーが「これでなければならない」と
思っている「時代遅れの」「オリジナリティ」に富んだ
音楽について知りたくなった。


恐ろしいほど私のピアノ音楽の好みは彼の好みと一致していた。
なあんだ、私も石頭オールドファッション組じゃないの。


 私のようなおばさんでも彼にとっては娘位の年齢だ。
音大はとっくに引退してしまったから久々の「講義」になる。私の施術のたびに
ど素人の私相手に毎日毎回色々な音楽の話をしてくださった。
どの作曲家のどの曲をどんな風に弾くべきか。どんなプレーヤーが
どういう箇所で素晴らしい表現をしているか。
本当は治療の最中はゆっくりしているのがいい。おしゃべりに夢中に
なるのはあまり良いことではないのだけれど(そして実際、一度
ドクターにおしゃべりが過ぎるって二人とも!怒られたりした)
治療のあと一緒にお昼を食べながらYoutubeで今日の話題の演奏を
探し出して聞いたりした。



 こんどこそ治るといいのだけれど。そう思っていたら先生の奥様が
ぽつりと言った。

 『吉岡さんは知らないでしょうけど去年、初めてプロフェッサーが
 うちに来た時は今の病気に加えて目も見えない状態でいらしたのよ。
 鍼と漢方薬でここまでよくなったのよ。』


 そうだったんだ。ピアノが弾けない状態が何より辛いっておっしゃって
らしたプロフェッサー。どんなに悲しかったことだろう。



(続く)


 

2012年12月3日月曜日

プロフェッサー   ⑧





    『本物志向』の人だ。完璧主義の一面でもある。




   お寿司は日本人が握ったものしか美味しくないだろうか?
   尺八は日本人が吹かなきゃ変だろうか?



 私自身は日本人のくせして西洋のものばかり追いかけて来た人間だ。
嘘の「ドイツ語」を話し、翻訳と言う名の偽のドイツ文学を紹介し
わかったような気にさせちゃったりする。
私の場合ドイツ語はまだ少しは出来るからいいけど他の言語に至っては
それがどこまで正確かどうかもわからない。



 ものすごく微妙で難しい問題なんだけど私は異文化を理解する
人と人との「架け橋」を目指して来たものとして、出自にこだわらない
立場を尊重したいのだ。「本物」になれる人は滅多なことではいないけれど
最初から国籍や生まれ育ちで排除しないで欲しいと思う。




 プロフェッサーはその意味で私とは正反対の「極」にいる。
そしてそうやって自分を苦しい立場に追いつめてきた。




 彼はご自分の本領であるクラッシック音楽において徹底したオリジナル主義の人で
ドイツの音楽はドイツ人にしか弾けないし理解できない。さらには作曲家と同じ場所
同じ時間に呼吸して来た人間にしか曲を理解できないのだという信念をお持ちのようだ。(同じ理由で東洋医学の治療は中国人からでないといけないとお考えでうちにいらしている。)



 つまり彼の意見に従えば現在活躍しているピアニストは全員「失格」だ。
その持論をご自分の生徒さんに隠しもしない。努力する前から「失格」の
烙印を押されては学生は面白くもない。かくして「アタマの固い頑固親父」と
音大でみなされ孤独な想いを抱えていらっしゃった • • • らしい。
そんな話を彼の口から聞いた。




 彼の病気の根底にはご自分の信念と生き方と、それを貫き穿つ際に出来た傷が
あると思う。





 人は自分の生き方なんてそうそう簡単に変えることは出来ない。





(続く)






2012年12月1日土曜日

プロフェッサー ⑦




       努力と強い意志が結託したとき全ては報われる。



 プロフェッサーと私の「距離」は急速に縮まった。夏。
私の努力と熱意を彼は受け入れてくれた。治療に「参加」している
実感が湧いて来た。


 うちのドクターはとにかく勘の鋭い方だ。気難しいプロフェッッサーが
(おそらくは自分に対してより以上に)私に対して心を開いていることに
即座に気がついた。


 だからってそこまでやらなくてもいいのになんだか先生はちょこまか
色々セッテイングして毎日お昼ご飯を二人(きり)で食べさせたりとか
意味不明の気配りをしていた。(女衒!?あるいは先生は実はプロフェッサーが
苦手とか • • • うん、ありうる。)



 プロフェッサーと色々話をして少し彼のことがわかった気がする。
例えば彼の持っている「寂しさ」のようなものの正体。




(続く)