「フォーゲルフライハイト(Vogelfreiheit=鳥の自由)という言葉があるでしょう?」
墓参りの帰り道、たくさんの立派な墓石を通り抜けながら
口の重い長男が語り出した。
「あれはね、多くのドイツ人が意味を間違えて
"鳥の様に自由に(frei wie ein Vogel)"みたいに使っているんだけれど
元々の意味は違っているんだ。」
へ?そうなの?いろんなこと識ってるんだね。
「鳥葬ってあるでしょう。死体を鳥の群れに自由についばませる。
そんな風に誰かを残酷に放り投げるって意味なんだ。」
「罪を犯した罪人が法律の保護下から放逐されることを
鳥の自由にさせる、という言い回しで使うんだ。
これはとても酷い言葉なんだけれど僕はどうかなって思う。」
「僕は自分が死んでしまって肉体だけになってしまったら
どんな葬られ方したって別に構わないって思うけどなあ。」
「キミがそう思うのはクリスチャンじゃないからでもあるよね。
肉の復活を信じないから。自分の存在や魂をカラダと切り離して
考えることができるってことなんだよね。」
綾ちゃんは息子がやはり今、「死」に向き合っているんだなあって
こういうテーマに感じやすくなってるんだなあと気がついてちょっとハラハラした。
「そうだね。でも、つまり僕はさあ、僕も死んでしまったらいっちゃんみたいに
あんな風に土に還る様にしてもらうのがいいなあ。
そう思ったっていうことなんだ。」
そうだね、わかるよ。
土と同化して木を育むからあの木にはいっちゃんがそのまま宿る。
立派なお墓を建ててもおそらく自分を覚えているのはせいぜい次の世代
くらいまで。それよりもっと大きな自然と一体となる実感が欲しい。
日本の神道だとご先祖様と一体化して神様になっていくから
それも神々しい輝きがあるけれど
ここ西洋のどっしりとした趣とはなんだかそぐわない。
いっちゃんママが埋葬場所の目印だと写真を送ってくれた金色の石は無かった。
我々親は、それでも何かの印を刻みたくなってしまう。
何かしらあがいてしまう。
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