2020年12月14日月曜日

目からウロコの早期外国語教育

 

       綾ちゃんはドイツ語の先生なので日々、たくさんのお母様方から

       お子さんの早期ドイツ語教育について相談を受ける。

       お子さんの選択言語としてドイツ語をと望む方は少数なはずなので

       英語教育に熱心な方はものすごくたくさんいらっしゃるはずだ。


        結論から言って綾ちゃんは早期外国語教育には反対だ。

       この話題は以前にも出したしなぜそう考えるかはその時書き綴った。


       先週、文学オタクの綾ちゃんが大好きな音楽評論家であり文芸評論家

       でもある小川榮太郎氏の対談シリーズ(明治文学・漱石と鴎外)

       を視聴していた時、彼が思わぬことを言っていて、

       へへえ〜!と聴き入ってしまった。 

               


小川榮太郎さんも松田学先生も綾ちゃん、ちょーリスペクトのお二人です!
21分くらいから語学教育の話になります。


日本においてエリート階層の語学力の最盛期はなんと江戸末期!!
なるほど新渡戸稲造も内村鑑三も著作を英語でしたため
現在に至るまで(しかも名文として)歴史に名を残している。

明治期になると夏目漱石も森鴎外も英独の達人でそれぞれ論文は
各国語でしたためているが文学作品は母国語のみ。

明治20年代になると谷崎潤一郎も志賀直哉も外国語で文章を書かない。

昭和に入ると翻訳中心の知識注入となっていく。


これらの語学能力、知性の高さの秘密は漢語の素養にある、という。


昨今において早期英語教育に走る傾向は全くもって
愚かで見当違い、脳科学も言語も文化も理解せぬ暴挙!とまで断言。

私たちの美しい和語は叙情的で具体的な表現に富むけれど
抽象性を嫌いシステマティックな解析度に欠ける。
昔のエリートたちはこれを漢文の素養によって論理的思考能力を
練り上げ、抽象図式的発想を発展させていったのだと。


な〜るほど。


綾ちゃん、実はものすごく「思い当たるフシ」がある。

綾ちゃん、小さい頃から読書オタクで文学作品を読みまくっていた。
が、残念ながら漢籍の素養には触れる機会がなかったものだ。


その綾ちゃんが高校に入学して漢文の時間に教科書に載っている
漢語の文章や詩に触れた瞬間から憑かれたように惹かれてしまったのだ。
主に詩歌。杜甫や李白、白居易の古典の世界。
成績のことなんか考えたことはない、ただただ毎日家に帰ると
一人でもごもごと教科書の漢文を読み下しで音読、その美しさに
うっとりとしていたものだ。

中学時代にやはり我が家の文学全集を紐解き一人高村光太郎や
中原中也、宮沢賢治、北原白秋、草野心平の詩を毎日音読しては
心の平安を覚えていた、、その日々が再来したのを覚えている。


あの頃、綾ちゃんの「脳」が感じたなんとも言えないエクスタシー的な
喜びの感情は言語的というよりは音楽的、図式的抽象的なものだった。


小川氏はあの時の綾ちゃんの感じた感覚を的確に援護してくれていると思う。


言語は学ぶならなんでも良いというわけではない、ということなのだ。
この議論は奥が深い、と思う。



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