(家探しの思い出の記事は明日載せます)
みんなはね ずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。
ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった。
(中略)
「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだろうか。」
いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、
急きこんで云いました。
ジョバンニは、(ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つの
ちりのようにように見える橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって、
いま、ぼくのことを考えているんだった。)と思いながら、ぼんやりして
だまっていました。
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。
けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なん
だろう。」カンパネルラは、なんだか、泣き出したいのを、一生けん命
こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、何にもひどいことないじゃないの。」ジョバンニは
びっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、
いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると
思う。」カンパネルラは、なにかほんとうに決心しているように
見えました。
(中略)
川の向こう岸が俄かに赤くなりました。楊(やなぎ)の木や何かも
まっ黒にすかし出され見えない天の川の波も時々ちらちら針のように
赤く光りました。全く向こう岸の野原に大きなまっ赤な火が燃され
その黒いけむりは高く桔梗いろのつめたそうな天をも焦がしそう
でした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく
酔ったようになってその火は燃えているのでした。
「あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせば
できるんだろう。」ジョバンニが云いました。
「蠍(さそり)の火だな。」カムパネルラが又地図と首っ引きして
答えました。
「あら、蠍の火のことならあたし知ってるわ。」
「蠍の火ってなんだい。」ジョバンニがききました。
「蠍がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんも
お父さんから聴いたわ。」
「蠍って虫だろう。」
「ええ、蠍は虫よ。だけどいい虫だわ。」
「蠍いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾に
こんなかぎがあってそれで螫(さ)されると死ぬって先生が云ったよ。」
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯(こ)う云ったのよ。むかしの
バルドラの野原に一ぴきの蠍がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きて
いたんですって。するとある日いたちに見附(つ)かって食べられそうに
なったんですって。さそりは一生けん命遁(に)げて遁げたけどとうとう
いたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があって
その中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは
溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、
ああ、わたしはいままでいくつものの命をとったかわからない、そして
その私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命
逃げた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてに
ならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れて
やらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。
どうか神さま。わたしの心をごらん下さい。こんなにむなしく命を
すてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために
私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蠍は
じぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを
照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。
ほんとうにあの火それだわ。」
(中略)
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろの
かなしみもみんなおぼしめしです。」
(中略)
ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みました。
向こうの方の窓を見ると、野原はまるで幻燈のようでした。百も千もの
大小さまざまの三角標、その大きなものの上には赤い点点をうった
測量旗も見え、野原の果てはそれらがいちめん、たくさんたくさん
集ってぼおっと青白い霧のよう、そこからかまたはもっと向うからか
ときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙のようなものが、かわるがわる
きれいな桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。実にそのすきとおった
綺麗な風は、ばらの匂でいっぱいでした。
宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」より抜粋
心からお悔やみ申し上げます。
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