母と一緒に過ごしていろいろ思うところのあった綾ちゃんなんだけれど
その時に何度も頭の中を去来したのは、若い頃読んだ一冊の本のことだった。
1990年代に一世を風靡したライアル ワトソン博士のこの本。
綾ちゃん、ワトソン博士の本はどれも夢中になって読みました。
「人間死ぬとどうなる」なんていう物騒なタイトルだけれど
オカルトとはまるきり関係ない、「死」というものの定義をどこまでも拡大する。
「死」というテーマを通してパラダイムの転換を促す衝撃の一冊と言ってもいい。
ここで取り扱っているのは医学的な死の定義ではなく、そもそも死とは何なのか。
ヒトの身体を構成する細胞の最後の一個の死をもって「完全な死」と仮に
定義するならば人が完全に死ぬのは心臓や脳が機能しなくなってから
はるかに先のことであるし
「生まれる」という出来事でさえ、生まれ落ちた新生児を構成する
細胞はその命の宿ったその瞬間すでに多くの死を迎えている、
つまり「生命」というのは「生」と「死」のせめぎ合いのダイナミズムの
集合体であって、或る日突然死を迎えるのではなく
ある「閾値」を迎えた状態を便宜的に「死」と呼ぶということなのである。
綾ちゃんパパが短歌でいただいた賞の数々です。
アルツハイマー病のような病気は脳機能からじわじわと「死」が
訪れるから周りの人々にとって哀しく辛い。運動機能にもやがて影響は
及ぶからそう遠くない将来、お別れの日が来るのは想像に難くない。
いろいろと尋ねてみて判ったことだけれど、母は20年以上前のことならば
だいたいの記憶はあるようだ。(怪しいこともたくさんあるけれど)
次に会った時に綾ちゃんが自分の娘だと母が判らなかったとして
それはある意味、母娘関係の死と言えるんじゃないだろうか?
いや、今現在だって多くのことが「死」を迎えている。
こういう小さな「死」を臨機応変に対処することを便宜的に「変化」と
呼んでいるのかな?
その意味ではいつも我々は「死」と隣り合わせに暮らしていて
(危険が迫っているという意味ではなく)たまたまこういう形で
「死」、色々な形の「死」というもののことを考えるきっかけを
与えてもらっているのだなあと思うわけだ。
綾ちゃんはなんと幸福なことにこれまでに身内の不幸を経験していない。
でもそろそろそういう時期が現実にやってきた時、もしかしたら
あんまり悲しんだりしないんじゃないだろうかという気がしてきたんだ。
「死」は「死」じゃないし「生」も「生」とは言えない。
その日が来たら、綾ちゃんはその日を綾ちゃんが母に巡り合ってから
愛されてきた長い長い日々を想う記念日として
心の中にしまえるんじゃないかという気がした。
これでもほんの一部です。
自慢ぽいから公開するのはどうかとも思いましたが記念に。
太宰府梅まつり短歌大会で一席を取った時の賞状
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