2013年6月14日金曜日

牛を尋ねて〜尋牛〜




             人生七転八起     


            

 もちょっと素敵なんですけどだいたいこんな感じの湯呑みをプレゼントしました。
今日になって先生がやっとで包装紙を解いてくださったのです。んで、達磨大師の話題で
盛り上がっていたとこ飛び込みで日本人の患者さんがいらっしゃいました。



 このブログでは日本人の患者さんのお話は原則書かないつもりなのですがちょっと
さわりだけね。その方は禅宗に大変興味がおありになっていらっしゃる度に禅の話題を
携えて先生にお会いするのを楽しみになさっていらっしゃいます。


 今回、この方は京都相国寺所有の「十牛図」ポストカードをお持ちになられたので
その方の治療の間、(本当は先生のために持ってきた)そのカードを眺めていたら
突然、感動の波がどど〜んと押し寄せてきました。私はやっぱり文学畑出身なので
絵に添えられた漢詩にじんと来るものがあって、もう、心が久々に浮遊する感覚を
味あわせてもらいました。


      

              これは廓庵の十牛図




従来失せず、何ぞ追尋を用いん。
背覚に由って、以って疎と成り、向塵に在って遂に失す。
家山漸く遠く岐路俄かに差う。
得失熾然として是非鋒の如くに起こる。



:
初めから見失っていないのにどうして追い求める必要があろうか?覚めている目をそこからそむけるから、隔たってしまうのだ。外に求めるから、真の自己を見失ってしまうのだ。 真の自己からどんどん遠ざかり、別れ道があると行き違ってしまう。得るとか失うとかの分別意識が火のように燃え上がり、是非の思いがむらがる鋒(刀のほさき)のように湧き起こる。



茫茫(ぼうぼう)として草を撥(はら)って去って追尋す。
水濶(ひろ)く山遥かにして路更に深し。
力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処なし。
但だ聞く楓樹(ふうじゅ)に晩蝉(ばんせん)の吟ずるを。



草を撥って、:無明の荒草をひらき、煩悩の葛藤をはらって、
追尋す。:多くの善知識について、真理を追究し、心牛(真の自己)を探究する。
水濶く山遥かにして路更に深し。:どこまで行っても、川の水は広く、山並みは遥かに続くように、煩悩と妄想はいよいよ盛んに湧き起こり、路は果てしなく遠い。
晩蝉の吟ずる:晩蝉はひぐらしのこと。雑念妄想がひぐらしが鳴くように湧き起こるのを喩えている。




 これは禅の悟りを得るまでのプロセスを逃げた牛に例えているものだそうなのですが
始めからそばにあるものをそれと気づかず追い求める様が格調高く唄われる起き上がりの
一句からもう、ぼうっとしてしまうほど感動してしまいました。


 今日は朝の湯呑みに始まって心が高揚する一日でした。











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