綾ちゃんは問題の10日間、ほとんどドイツ語を喋らなかった。
日本人の女友達とはだべっていた。
ただアタマの中で「シュミレーション」を繰り返していただけだ。
言葉というものを生きたものとして生きたシュチュエーションで
「活かす」ことを考えていたのだった。
心から「伝わる」ことを願って、、、。
オンナの子というのは本能的な生き物なのである。ちょっとくらい
エリートの称号を与えられたって本質が変わるわけではない。あの頃の
綾ちゃんはただの20歳代のひよっこだったんだ。
実は綾ちゃん、今回の事件とは全く別に留学生活で一種の閉塞感というか
行き詰まった感じを持っていた。ドイツ語をこんなにやっているのに
まるきり「生きた」言語として感じられないことについて。一生懸命
ドイツ語を勉強すればするだけ母国語の日本語や日本的な感覚から生活の
言語が隔離していくような絶望感といったらいいのだろうか。(大学の
会話の時間では綾ちゃんはむしろ一番デキる生徒だったのに、、という焦り
もあった。)日本でドイツ語を勉強していて打ちひしがれるならばまだ判る。
でもドイツ生活を始めてさえなお感性はまるで日本にいるときと変わらない
じゃないか、このまま結局、終わってしまうんじゃないかってね。
それに比べて、例えば現地で暮らしているドイツ人と結婚している女性の
方などが、綾ちゃんのように確固とした文法や学問的基礎も無しに
自由闊達に(ペラペラというんだな、要するに)ドイツ語を使いこなしている
ことに対する羨望(妬みだな、要するに)を抱いていた。彼女たちは
綾ちゃんがこれまで四苦八苦して勉強してきた苦労など一顧だにせず
まるで日独友好外交官のように振舞っているではないか。
綾ちゃんは、そんじょそこいらにフラフラしている女の人とは全く違う
学術的背景を背負っているはずだった。そんなことを口に出して言うことが
人間として、女性としてはしたないことだと恥じていて困惑していた。
そんなこんながこの即席恋愛事件で雲散霧消してしまったのだ。
そう、例えば国際結婚していらっしゃるこちらの日本人女性というのは
たった一人の人を自分の大切な人として自分を愛するように大切に考えて
らっしゃるわけだから自然、相手に伝える言葉を唯一の伝達手段として
一つの言葉に賭けるエネルギーを余さず伝えようと努力しているはず。
ゲーテを知らなくったって、カントを読んだことがなくったって。
大きく思い上がっていたのは綾ちゃんの方だったんだ。
愛するという行為はここでも真実を暴く。自他行為という言葉があるけれど
「言葉」というコミュニケーション手段にどれほど力を与えられるかは
どれほど伝える相手に愛を送ろうという気持ちが強いかという問題
だったんだ。
これはエンゼルパイ
これはきのこの山、だと思うんですね。
綾ちゃんちの近所のスーパーマーケット、ロシア製品売り場です。
0 件のコメント:
コメントを投稿