2015年10月15日木曜日

言葉を超えたい






      言葉というのはとても便利な伝達手段で無意識のうちに万能と
     思う向きも多いんじゃないだろうか?弁の立つ人間が社会的に
     成功する傾向にあるし、言語手段を介さずには大部分の学問は
     成り立たない。英語教育の偏重だって欧米社会で少しでも優位に立つ
     ための焦りの表れのようなものだし。





      でも綾ちゃんは、実を言えば言語の持つ実用性、つまり「言葉」そのもの
     をさほど重要視していない。



      こういうとリアルの綾ちゃんを知っている人は意外に思うかもしれない。
     綾ちゃんは(自分でも実は内心呆れてるんだけど)ペラペラおしゃべり
     大好きオバさんだしなんでもかんでも解釈したり定義付けたりしてばかり。




      でも綾ちゃんが「言葉」にこだわるのは、まずは言葉でどこまで
     行けるのか行くだけ行ってみてその境界線を知りたいからなんだ。
     その「外側」を知りたいからなんだ。
     この感覚、分かってもらえるかな?



      綾ちゃんが学生時代、文学を専門にしていたのはまさしくその探究心の
     表れで、言語芸術が言葉というコミュニケーションの機能を超えて
     「美」に変化する瞬間を捉えたい、というのが究極のテーマ、つまり
     綾ちゃんの願望だったわけ。分かりやすく言うと。


     



      綾ちゃんにとってスピリチュアル、魂や宇宙、そして彼岸のあれこれと
     いう話題はその、綾ちゃんがたどり着きたいものの到達点に近い気がして
     いた。だから綾ちゃんはやはりここでも自分流のやり方である程度の
     理解を得たかった。文学などのすべての芸術はつまるところ神の国への
     憧れと生なる地の重き楔(くさび)の哀しき描写がほとんどを占める
     わけだし。



      綾ちゃんがスピリチュアルを極めようという人に求める覚悟というのは
     つまりはそのような努力のことを指していた。



      だから、必然的に彼女とは袂を別つ日が来たのだと思う。



             

               両部(りょうぶ)曼荼羅
          曼荼羅というのは大日如来の真理や悟りの境地を
       言語化だけでは表現できず視覚化で試みたものと言われている。



      
      

0 件のコメント:

コメントを投稿