2016年11月7日月曜日

辞表





綾ちゃんが突然、「仕事、辞めよう」と思い立った日、その日は偶然にも
ネット検索すると法的にも最短の日数で辞められる直前の日付であった。
1日でも遅いと次のタームまで最終勤務日がずれ込む。


『雇用関係というのは、たとえそれまでどれほど良好な状態にあっても
辞表を提出した途端、すべてが豹変する(しがちな)もの。
だからすべての準備をしておくべき。』



と友人のありがたいお言葉に従い想定されるあらゆるトラブルの準備。


『いいかい、僕は労務のプロではないし残念ながら労務関係の腕利きの
弁護士も知らない。できれば事前に一人アタリをつけておいたほうがいいな。』



とはいえ綾ちゃんに特別心当たりがあるわけでもない。まあ、綾ちゃん夫が
昔、仕事でお世話になっていた方を識っているといえばいえるか。
非常事態にはそこへ駆け込む用意。


Sは(自分の仕事もあるだろうに)電話口で事細かに綾ちゃんの辞表の
ドイツ語を添削してくれたり善後策を講じてくれた。
綾ちゃんは昔、仕事でいつもそうしていたように幾つかのビジネス用の
例文を型取って作文。こんなもんでいいだろうと甘く考えていた綾ちゃんにSは
これはこういう意味、ここは法的にはこう解釈されるからこういう表現に変えるべきと
細かく訂正を入れてくる。ええ、そこまではきっと誰も考えたりしないと思うけどなあ、
と感心したもんだ。いやー、お勉強になるなあ。




うひょうひょ




Sの気持ちは痛いほどよくわかる。「いざ」という時には戦わなければいけない。
そしてその時には100%勝たねばならない。法律家は100が150にも
200にもなるように知恵を授けてくれる。ありがたい。ありがたい。
どこまでもありがたい。



だけどね。



辞表を提出する前日、綾ちゃんはSに言った。


『ありがとう。ものすごく感謝してる。アンタの教えてくれたこと、全部
アタマに入ったと思う。多分失敗しないよ。だから最後の瞬間をどう「演出」
するかは私に任せてくれる?』



『ね。私はこれがドイツ人と日本人の違いなのか、男脳と女脳の違いなのか
はたまた法律家と文学家の違いなのかわからない。アンタに言わせれば
私のやり方は甘っちょろすぎるのかもしれない。
でもね、私には私の幕引きの仕方があると思う。あともう少し、朝まで考えて
これまでの病院での生活にふさわしいピリオドを打ってくるよ。
ここだけ私に任せて。』



そう、ここは綾ちゃんの人生の大切な一場面なんだ。誰に譲るわけにもいかない。


そうして綾ちゃんはその日の朝を迎えた。





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