2016年11月9日水曜日

運命のその日




綾ちゃんは眠れなかった。


そういえば退職という文字が電撃的に頭をよぎったのも明け方だった。
いろんなことをつらつら考えていたら眠れなくって、それまで考えていなかった
「退職」の文字が不意にやってきたら今度は
「今辞める」「すぐ辞める」で頭がいっぱいになってしまったのだ。
綾ちゃんはこういう「お告げ」的直感を大事にする人なので
そのあとは一直線だった。


綾ちゃんはいつもより随分早く出勤して丁寧にすべての準備を整えた。
時間に余裕を持っておかないと日常の些事に押されてチャンスを見失ってしまう。


ドクターは予定の時刻より10分ほど遅れてやってきた。
その前の週、プロが参加するような絵画のマスターコースに参加して
気分が高揚しているらしく随分機嫌がよかった。作品、写真に収めてあるから
後で見せてあげるねって嬉しそうで綾ちゃんに最初の患者さんの施術の
指示をして自室に入っていった。



綾ちゃんはドクターの指示にハイっと了解の意を唱えたもののそれには
従わずドクターと一緒に治療室を出て行った。(こうなることを想定して
患者さんにはサービスで別の施術の準備をあらかじめしてあった。)


ドクターはびっくり顔だ。どんな些細なことであれ綾ちゃんがドクターの
指示に従わなかったのは初めてのことなんだ。しかもハイっと言っていたのに。




『患者さんには今、別の処置をしています。すぐ済みますから
ちょっとお話があります。』




勘の良い彼のことだ。ただならぬことだともう気付いてる。緊張した面持ちの
彼ににこやかに微笑みかけてできるだけ静かに切り出した。


『私、決心しました。ここを出て行きます。これまで本当に
お世話になりました。たくさんのことを学びました。ありがとうございます。』


この部屋に今、綾ちゃんとドクターの二人しかいない。


『いいですか、これから私はなぜ私がここを去っていかなければいけないのか
本音を、本当の気持ちを一度だけ言います。』



綾ちゃんは用意していたセリフをささやいた。



『いや、それは、、、。そんなことが、、、それとこれとは関係ないんじゃ、、。
いや、君が辞めることはないし辞めるにしたって今すぐってわけじゃないだろう。』



ドクターもしどろもどろだ。




うきゃきゃ。ちなみにここ、ホテルマリオットです。



『じゃ、患者さんの施術に戻りますね。』



『いや、いいよ。僕が行く。僕がやろう。やりたいんだ。』



頭の中が大混乱になっているのがわかる。本来は綾ちゃんの仕事である
お灸や吸玉、その他の作業をどうしても自分でやると言って聞かなかった。
それらの作業が終わった後、今度は自室に戻ってドンドン部屋の模様替え(!)を
し始めた。そう。これも彼の癖で頭がショックで混乱している時に
とりあえず体を動かそうとするのだろう。
そういえばハルさんがお亡くなりになった日にも同じことをしていたっけ。



綾ちゃんは改めて胸が締め付けられるような思いがした。






0 件のコメント:

コメントを投稿