2013年2月6日水曜日

シャボン玉 飛んだ ⑯




   どこかで聞いたことがある。

      人は死や離別、衝撃的に悲しい体験をすると
      それを乗り越えるために三つのプロセスを経るんだって。
      まず茫然自失のショック状態、次に哀しみ、最後に怒り。



   目の前の結末を自分が結局良い方向に変えることが出来なかったことに
  対する怒りの想いと対決しなければならないんだって。そしてそういった
  手順を踏んでようやく最後に事実を事実として受け入れられるようになる
  ものらしい。私たちもそういう曲がり角に来ていたのだろうか。



   ハルさんの死に哀悼の意を表し続ける私たちの心に小さな波風を起こす
  事実が判明した。




   すなわちハルさんの残していた遺言だ。


   彼は自分の入院費用と治療費のために借金をしていた。自宅を抵当にかけて。
  そして遺言書の中で、彼のなけなしの所有品目を全て現金化して
  彼の入院先の担当医に「感謝を込めて」贈与する旨取り決めてあった。




   医者としての私のドクターは完全敗北していた。というより最初から先生の
  立ち位置はハルさんの「友人」であって「主治医」では無かった事実を
  思い知らされる結果となったのだ。



   きっと先生のアタマの中ではこれまでハルさんのためにかけて来た時間と
  労力と架空の請求書(数十万円ではきっとすまない額)が渦巻いたことだろうなあ。
  決して考えてはいけないことだけど、私でさえ計算しちゃったもんなあ。
  全部ドクターの余計なお節介だったんだって公式文書で言われちゃあねえ。


   もちろんドクターは(かなりアタマに来ているようだったけど • • •
  この頃にはだいたい表情で上司の気分が読み取れるようになっていた)
  この一件に関してはノーコメントを貫いていた。奥様が愚痴ってらした。
  (それで私がこのことを識った。)



先生『ハルさんは余すところ無く自分の人生を生きたよ。最後の数ヶ月は辛い日々を
  送ったけれど。少しでも余暇があるとキャンピングカーで好きなところへ出かけて
  誰に対しても自分の意見をはっきり言ったし。自由人だったなあ』


奥様『そうねえ。私がドイツに来たばかりの頃ドイツ語が一言も出来ないから英語で
  話しかけたんだけど無視されて辛かったわ。オマエはドイツで生活するつもりで
  来たんだろう、あんなに苦労してヴィザを取ったんじゃなかったのか。だったら
  ドイツ語以外は話しちゃだめだって何度も叱られたわ。今にして思うと
  あれほど親身になってくれた他人は彼一人だった。』



 そんな思い出話を重ねながら(そんな話を横で聞く私もなんだかそんなこんなを
一緒に体験したかのような感触にとらわれて)ゆっくりゆっくりハルさんの
ことを心の額縁に飾っておけるようになっていった。




 ドイツの夏は短い。8月の声を聞くともう、秋の香りが漂い始める。
私はハルさんの近親者じゃないからお葬式にも参列しなかった。
その日は病院の留守番係だった。でもお葬式と言っても遺言で死後
すぐに荼毘に付されて灰を大好きだった山に撒くというだけのものだ。


   今日が晴れで良かった。
   みんなが柔らかい笑顔を取り戻せた頃で良かった。



   どんなことも乗り越えていけるものだ。


ミュンヒェンの空




(終わり)
 
   

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