2016年4月5日火曜日

社会性を持った言葉選び(綾ちゃんドイツ語講座)



          ゲンちゃんの話題も以前一度したよね。



   彼は綾ちゃんの会社では最古参で皆に愛されていた。ドイツエリア担当の
  唯一の営業マンだった彼は当初すべての仕事を一人で行い、自分のやり方を
  通していたしそのことにつべこべ言うライバルもいなかった。



   が、支店が大きくなるにつれスタッフも増えバブルも終わりを告げ
  本社が少しずつ(安く済む)現地スタッフに舵を切り替え始めた頃のこと。
  ドイツ人営業スタッフを1名、ドイツ人営業マネージャーを1名増員することとなり
  彼のやり方では少しずつ通らないことが増えていった。



   彼は単純に会社で古株の自分が当然昇進できるものと踏んでいたようだが
  ことはそう簡単ではない。上司は外部から招かれ、新たに「同格」の
  仲間が増えるにあたり、はたとこれまで同僚とお友達のように接してきた
  ことを激しく悔いているように見えた。


   彼は(ミヒャエルも含む)綾ちゃんの世代までの同僚からは下の名前で
  呼ばれ、上司から、または日本人が3人称的に彼の話題を口にするときには
  ゲンちゃんと呼ばれていた。


   が、彼は自分が「ちゃん」づけで呼ばれることに不快感を現すようになってきた。
  これは日本語のニュアンスでは決して蔑視であるわけもなく純粋な愛称だったの
  だけれど、彼的には自分が本当は周囲から軽んじられているのでは、、、?
  と疑いの目を持つようになったからのようだった。


   この頃から突然彼は新しく始まる人間関係とは決してドウーで自分を
  呼ばせないようになった。新人のスタッフは合点が行かなそうである。
  我々は皆親称で呼び合っているのにはっきりと「線」を引かれたわけだから。



   綾ちゃんはというと、実はゲンちゃんのこの行為によってかなりはっきりと
  ドウーとズイーの重要性、社会性を持った言葉の選び方ということに意識が
  いった。



   当時同僚だった綾ちゃん夫もこの事件がきっかけで親称、敬称問題に
  目覚めた一人だった。彼も学生としてドイツ生活を始めたので仲良しは
  ドウー、目上や特に親しくない人とはズイー、くらいの単純な線引きで
  それまで生きてきただけだったのだ。 






          これ、日本の桜じゃないよ。今日ミュンヘンの
          街中で見つけた桜です。



   

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